佐藤哲男博士のメディカルトーク

154. 忘れられない二人の転校生

私には、生涯忘れられない二人の転校生がいる。一人は小学校時代、もう一人は高校時代の出会い(※厳密には入れ違いですが、のちの交流を含め)である。

一人目の転校生は、小学校時代の同級生だ。1883年に創立され、秋田市内の小学校の中でも古い歴史を持つ築山(ちくざん)小学校の4年生の時だった。ある日、先生が県北部の扇田町(現在の大館市比内町扇田)から転校してきた生徒を紹介した。彼は賢そうで、はっきりした口調で自己紹介をした。名前は明石康(あかし やすし)氏である。恐らくその賢さから将来を見込まれ、地元の先生が県内第一の進学校である秋田中学校(旧制)へ入学させるために、築山小学校に転校させたに違いなかった。

明石康氏(写真:wikipedia)

彼は小学校卒業後、当時県内で最も難関だった県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)に入学。さらに旧制山形高校(現在の山形大学人文学部および理学部)を経て、東京大学へと進学した。東京大学教養学部アメリカ学科を卒業後は、当時米国へ留学する手段として非常に高い競争率を誇ったフルブライト留学生として渡米。バージニア大学大学院を修了し、コロンビア大学で学んだ。

周囲の期待通り、かつての賢い少年は後年、日本人としての「国際公務員第1号」となり、国連に就職。最終的には国連事務次長として軍縮や広報を担当し、世界的に活躍した。

その後、東京で毎年開催される「秋田県人会」に招待された際、私は会場で小学校卒業以来、一度も会っていなかった明石氏と実に70年ぶりの再会を果たした。彼も招待者として参加していたのである。小学校時代の話を向けたが、彼は私のことを記憶していなかった。それも当然で、当時転校してきたばかりの彼にとって、60人もいるクラスの1人にすぎない私を覚えているはずがなかった。会場で彼の口から出たのは、旧制秋田中学校時代の数人の同級生の名前だった。当時すでに80歳を超えていた我々は、ひとしきり昔話に花を咲かせ、お互いの健康を祝して再会を約束し、別れた。

明石氏は国連時代に多くの実績を挙げて退任された。その後も日本国内で多くの要職を歴任し、京都国立博物館館長も務められた。彼は私と同じ1931年1月生まれなので、現在95歳である。ちなみに、あの有名な渋谷の“忠犬ハチ公”の生家は、彼の母親の実家にあたる。

二人目の転校生(編入生)は、私の高校の後輩である。私が秋田市立高校(現在の秋田県立秋田中央高等学校)を昭和26年3月に卒業した直後の同年4月、県内から1年生のクラスに編入してきた生徒がいた。のちにノーベル賞候補となった、遠藤章(えんどう あきら)氏である。

遠藤章氏(写真:wikipedia)

遠藤氏は秋田県由利郡下郷村(のちに東由利町を経て由利本荘市)の農家に生まれた。地元の小学校、中学校を卒業後、高校時代は当初、定時制の本荘高校下郷分校に通いながら農業に従事していたが、先生の推薦によって秋田市の全日制である秋田市立高校に編入学した。在校中は優秀な成績を収め、当時の刈田文雄校長先生の勧めで東北大学農学部に入学。卒業後は三共株式会社(現・第一三共株式会社)に入社した。

1971年から新薬候補の探索を始め、1973年には6,000もの菌類の中から、米の青カビを原資とするコレステロール低下薬(スタチン系)の第1号となった「コンパクチン」を発見した。1979年に東京農工大学農学部助教授、1986年12月には同教授となり、1997年3月に定年退官された。現在、世界中で使用されているコレステロール低下薬は、彼の長年にわたる執念と努力によって発見されたものである。その偉大な業績に対し、2006年には独創的な研究に贈られる「日本国際賞」を受賞、2011年には文化功労者となった。その他にも数々の国際的な賞を受賞し、毎年ノーベル生理学・医学賞の有力候補に挙がっていた。

2019年の日本国際賞の受賞会場(※遠藤氏は2006年の受賞者としての招待と思われます)で、彼は招待者として参加しており、私は久しぶりに再会を果たした。車椅子に乗っておられ、体力が落ちているように見受けられたが、少しばかり言葉を交わして別れた。結果として、それが遠藤氏との最後の会話になってしまった。ノーベル賞の受賞という栄誉を残したまま、彼は2024年に逝去された。

おわりに

明石氏と築山小学校で共にしたのは、昭和10年頃の、第2次世界大戦に突入する前の平和な時代だった。80年以上も前のことだが、今でもよく記憶している。毎朝、近所の友達はみんなで連れ立って通学していたが、彼は少し離れた親戚の家に下宿していたため、いつも1人で通っていた。授業中は、転校生であるにもかかわらず、非常によく発言していた姿が目に焼き付いている。当時、小学校で一緒に遊び、共に学んだ同級生の多くは、すでに鬼籍に入られている。

一方の遠藤章氏とは、私が3月に卒業し、彼が同年の4月に入学(編入)したため、同じ校舎の中で直接顔を合わせることはなかった。しかし彼も明石氏と同様に大変な秀才だったため、当時の刈田校長先生がその才能を見抜き、東北大学への進学を後押しして無事合格を勝ち取った。彼がカビに深い興味を持ったのは、生家が農家で、幼少期からカビ(発酵や菌類)に接する機会が多かったからだと言われている。

遠藤氏がこれほど多くの国際的な賞を受賞しながらも、ノーベル賞の栄誉を手にすることなく世を去ってしまったことは、本人にとっても、そして友人の一人である私にとっても、心から残念でならない。

2026年6月1日