佐藤哲男博士のメディカルトーク No.147
147. 60年前の北海道を想う
私が初めて北海道へ行ったのは昭和35年(1960年)に北海道大学の大学院入試のときだった。私の場合、秋田から北海道へ行くには青森からの青函連絡船のみだった。夜に青森港を出港し、通常の連絡船では4時間半、高速化した「羊蹄丸」では3時間50分で函館に着いた。函館港に上陸し街に出た瞬間に空気が本州と違う感じがした。中でも特徴的だったのが、冬の大雪により住宅の屋根が潰れないようにどこの家もとんがり屋根だったことが印象的だった。本州では見られない光景だった。私にとっては異国に来た感じがした。
また、北海道弁も独特だった。北海道は、昔開拓の人々が本州の多くの地方、中でも東北地方から移住して開拓を始めた。従って、各地方の言葉、風俗、習慣などがそのまま今でも残っている。それらの言葉が合体して生まれたのが北海道弁である。「触る」は「ちょす」「非常に寒い」は「しばれる」、「可愛い」は「めんこい」、「疲れた」は「こわい」、「捨てる」は「なげる」などである。これらの方言は東北地方の方言と似ている。私は秋田出身なのでほとんど理解できた。しかし、最近の若い人々は北海道のみならずどこの地方でも方言を使わなくなった。また印象的だったのは、地元の道産子は初対面の人でも旧知のようにすぐ親しくなった。それは昔開拓民が全国から集まって集団生活したことによると思う。その親しさが時には本土の人々にとっては馴れ馴れしいと誤解されることも少なくなかった。

閑話休題
函館からJRを利用して約4時間で札幌に着いた。当時の札幌は道民にとっては現在の東京と同じほどの大都会だった。当時、札幌から車で30分も走ると、もはや都会の様子は消えて郊外の田舎町に変わった。札幌市内だけが賑やかな都会だった。全国的に有名な時計台、クラーク像、ポプラ並木など北海道の象徴的な景色が札幌市内に集中していた。
私は昭和36年(1961年)から昭和41年(1966年)年までの5年間北海道大学薬学部大学院修士、博士課程学生としてこの素晴らしい街で過ごした。北大の構内にあるクラーク博士の胸像やポプラ並木などは観光客によって一日中賑わっていた。昼休みには研究室の友人とともに構内のクラーク会館の食堂で昼食を摂り、時間があるときはポプラ並木を散歩した。毎日の厳しい研究生活とともに私はこの素晴らしい街を楽しんだ。北大の敷地は全国のどこの大学よりも広いと言われている。それは、かつて札幌農学校が総合大学になった時、広大な土地の中で必要なだけ大学が使うことが許されたからである。資料によると、北大の土地の総面積は農場も含めて660平方キロメートルで、東京23区(625平方キロメートル)を上回っていた。
冬の札幌の大通公園の「雪まつり」は壮観だった。資料によると、市民制作の像が加わったのは昭和29年(1954年)年である。昭和30年(1955年)の第6回には、陸上自衛隊、商社、市の出張所が加わり、様々な参加者による多数の像が並ぶ現在のスタイルが定着した。昭和34年(1959年)の第10回あたりから、雪まつりを目当てに道外から訪れる観光客が増え始めた。札幌オリンピック(冬季オリンピック)があった昭和47年(1972年)の第23回雪まつりは世界的に紹介され、これ以降は海外からの観光客も目立つようになった。夜大学からの帰途、時間があるときには夜7-8時頃「雪まつり」の会場をぶらぶらした。昼は観光客で溢れていた会場が、夜になると嘘の様に静寂だった。

60年前の札幌は最近のような異常気象がなかったので、夏でも20度台だった。従って札幌市内で最も近代的な建物である札幌三越でさえも冷房設備がなかった。夏場の暑いときは氷柱を店内に立てていた。一般家庭は暑いときは扇風機を使って過ごした。冬は大変だった。酷寒と大雪が毎日続いた。各家庭には大きめのタンクが備え付けられており、それに灯油を満タンにして暖房は完備していた。私の下宿では各部屋は灯油ストーブで暖をとっていた。外は酷寒で近くの銭湯からの帰りにタオルを下げて歩いていると瞬く間に棒状になるほど寒かったが、室内は半袖で過ごした。
札幌には美味しい食物を提供する店が多い。中でも私の好物は味噌ラーメンだった。ススキノの近くにあるラーメン横丁の店の味噌ラーメンは抜群に美味しかった。日曜日に街の中をぶらぶらした時には毎回ここに立ち寄った。また、大通りに並んでいる屋台の茹でたとうきび(トウモロコシ)も絶品だった。 私が入学した頃は、薬学部は医学部薬学科だったので、薬学部の独立した建物はなく、医学部や付属病院の空き棟を利用していた。大学での研究は厳しかった。夜遅くまで動物実験が続いた。創立当時の北大の先生は多くが東大から転任されたので、若い助手、助教授の先生が多く、学生とは年齢がそれほど離れていなかったので友達の様に過ごしていた。私が在学していた1961(昭和36)年4月―1966(昭和41)年3月には、薬品製造学、薬化学、薬品分析化学、生薬学、薬剤学、衛生化学、薬効学の7教室だった。初代薬学科長は衛生化学教室の教授である赤木満州雄先生だった。私が属していた薬効学教室は、岩本多喜男教授、小林凡郎助教授、宇井理生助手、藁科助手、白崎助手の先生方だった。小林凡郎先生は研究の指導のみならず学生の相談事についても全力で対応して下さる素晴らしい人格者だった。残念ながら私が博士課程2年の時に新設の北里大学薬学部の教授に転出された。北里大学においても小林先生は職員や学生の尊敬の的だった。小林先生は平成3年(1991年)に第6代学長となり大学の管理、運営に力を注がれたが、任期中の平成6年(1994)年に2度目の心筋梗塞でご逝去された。責任感の強い先生のご性格から恐らくお体を酷使して学長職に専念されたものと思う。私は、先生方のご指導のおかげで昭和41年(1966年)3月に大学院博士課程を修了し、薬学博士の称号を授与された。そして、5年間の札幌の生活に終止符を打ち、同年に懐かしい札幌を去った。私が札幌を去ってから、宇井先生は北大教授から東大教授に転出された。
おわりに
5年間の札幌の生活は私にとって終生忘れることができない。そこでは大学においても、下宿の生活においても毎日が新しい経験の連続であった。本稿では私が受けた教育、研究については紙面の都合で省略したが、研究室では厳しいご指導と研究者のあり方を教えて頂いた。このことは私にとって後年教職に就いていた時に大きな指針になった。昭和29年(1954年)に4講座から始まった北大医学部薬学科(薬学部の前身)は、昭和40年(1965年)に薬学部となり、昭和33年(1958年)年には大学院薬学研究科が新設された。その後、研究室が増設されて、令和7年(2025年)現在14研究室、2寄付講座、2研究センターとなった。今後ますます発展することを祈るのみである。僅か5年間であったが、北大での生活の中で教えられた知識、考え方は私の研究者としての土台になっている。寒い夜など60年前の札幌での生活を思い出すとたまらなく懐かしい。
2025年11月1日

