佐藤哲男博士のメディカルトーク142
142. 可能性の限界:「脳の臓器移植は可能か」
はじめに
認知症の患者が増加しています。脳の中の認知機能を司る箇所を健康な脳の同じ箇所と置き換えることはできないでしょうか。つまり、脳の部分移植は可能でしょうか。結論からいうと、残念ながら現段階では「否定的」です。しかし、空想が現実になることもありますので医学の進歩に期待したいところです。
ここで臓器移植の歴史を考えます。

臓器移植の歴史
我が国における最初の心臓移植は、1968年に札幌医大の和田寿郎教授(1922~2011)により行われました。その時のドナー(臓器提供者)は、海で溺れた当時21歳の男子大学生で、レシピエント(移植を受ける患者)は18歳の心臓弁膜症を患う男性でしたが、移植手術後83日目に死亡しました。当時の臓器移植は今と違って法的に整備されていなかったので、和田教授は医学の横暴ということで社会から強い非難を受けました。
その後、海外で報道された臓器移植の必要性、有用性に関する知見や、医学界からの要請などにより、わが国では1997年から国として検討が始まりました。その後、2008年の国際移植学会によるイスタンブール宣言により、国内の臓器移植の推進が求められました。法的には、2010年7月17日に「改正臓器移植法」が全面施行され、本人の意思が不明な場合でも、家族の承諾があれば脳死下の臓器提供ができることとなりました。
脳は特殊な臓器
臓器移植の対象となる主な臓器は、心臓、肝臓、腎臓で、その他、肺、膵臓、小腸、眼球などが行われています。それ以外の臓器として多くの専門家により議論されて結論が出ていないのが脳の移植です。 “脳移植は可能か”の質問に対して現段階では“否”です。その理由は、後述の通り脳は他の臓器と異なって特殊な構造、機能を持っており、さらに倫理的な問題があります。
脳はその構造と役割(機能)から大きく3つに分けられます。知覚、記憶、判断、運動の命令、感情などの高度な心の働きを司る大脳と、運動や姿勢の調節をする小脳、そして呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など、生きていくために必要な働きを司る脳幹に分類されます。大脳、小脳の小さな損傷は、回復の可能性がありますが、脳幹を損傷した場合は生命を維持することができなくなります。 脳の重さは、成人男性で1300~1400グラム、成人女性では1200~1300グラム程度ですが、90歳になると60歳の脳よりも5~7%程度軽くなると言われています。 萎縮の早さや程度には個人差が大きく、また脳の部位によっても個人差がみられます。
脳の働きを維持するには大量の血液が必要です。脳が必要とする血液量は、脳組織100gに対して1分当たり50~60mL、脳全体では1分当たり約800mLです。心臓から流れる血液量(心拍出量)は1分当たり約4.5Lですから、心臓から出る血液量の1/5~1/6が脳に流れ込んでいます。脳は血流が完全に停止すると、6秒で代謝異常、2分で機能停止、5分で細胞が死ぬので脳の働きが停止します。死んだ脳細胞は復活しません。脳細胞は肝臓などと異なり、死んだ細胞を補うために新しい細胞が新生されることはありません。脳細胞の数は生まれてから1〜2か月時まで増加し、それ以降増加しません。 大脳の神経細胞数は約140億個と推定されていますが、大脳の深い所にある細胞や小脳の細胞を入れると1000〜2000億と推定されています。
脳はたとえ高齢者になっても物事を考えることや活動をすることができます。神経細胞は1日に10万個死んでいくといわれます。しかし心配はいりません。神経細胞が減少すると生存細胞がお互いにネットワークを作って減少した細胞の作用を補っていますので、高齢になっても心配は要りません。実際、老化して亡くなった人の神経細胞を調べてみると、むしろ若い人よりも豊かな情報網が作られていることがわかっています。
脳移植は可能か
さて本題に入ります。認知症患者が5人に1人の現状において、もし認知症患者の病変部を正常な脳の同じ部分と置換することができれば認知症は改善されるはずです。しかし、残念ながら、現状においてそれは不可能です。何よりも決定的な“否”は、ドナーの定義が「脳死が確認された患者」です。したがって、移植する段階で、脳は「脳死」の定義に基づいて死んでいるはずです。脳の移植の可否について、私は臨床医ではないので医学的な経験はありません。いくつかの資料に基づいた下記の質問と回答をご参考下さい。
脳の移植に関する質疑応答
質問1. 脳は移植できるのか?できたとしたらどうなるのか?
人格はどちらのものになるのか?記憶は共有されるのか?
回答1. 技術的には脳の移植も可能であろうと思われる。しかし、倫理的に大きな問題があるので、脳移植が法的・社会的に認められることはまずあり得ない。医師の話として、「脳だけを取り出して溶液のなかで生かしておくことは技術的には可能であるが、それを移植に用いることは倫理的にあり得ない」とある。
質問2. 技術的に神経を全部つないで、脳からの信号を全身に伝えることができるのか
回答2.いろいろ難しい問題があるが、技術的に可能か不可能かといえば、可能と考える。しかし、このような移植手術が倫理的に実際に許されることは考えられない。

質問3. もし脳移植ができたとしたら人格はどちらのものになるのか
回答3. これは実際にやってみることができないので本当のところどうなるかはわからないが、恐らく脳を提供した人の人格になると考えられる。逆に移植された肉体のほうの人格が残るというのは想像できない。これが脳移植は倫理的に“否”の理由である。
質問4. 記憶は共有されるのか? 今までは脳をそっくり取り替えるという前提で話してきた。そっくり取り替えたならば、記憶も新しく入れられた脳のものになるだろうか?
回答4. 脳の部分移植をしたらどうなるかについては全くわからない。脳のなかには記憶を司る海馬があるが、海馬を部分的に移植した場合は、海馬がどちらのものかによって記憶がどちらかも決まってくるのかどうか全くわからない。
iPS細胞から脳細胞シートの作成は可能か
iPS細胞は山中伸弥教授が発見し、それにより2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞しました。iPS細胞は体のあらゆる細胞に変化することができる万能細胞です。2024年10月2日(火)、京都大学医学部附属病院豊田太郎講師らは、1型糖尿病患者を対象としたiPS細胞由来膵島細胞シートの作製に成功し、その安全性の確認試験を患者を対象に2025年1月より開始しました。
また、2024年、大阪大学の澤芳樹特任教授は20年かけてヒトiPS細胞から作製した心筋細胞をシート状にして重症心不全の患者の心臓の上に心筋シートを貼り付けるだけで心臓の機能が改善することを確認しました。これまで澤教授らは8人の患者にシートを移植する臨床試験を行い、いずれも経過は良好だということです。2025年4月8日に「心筋細胞シート」について、厚労省に製造・販売の承認申請を行ったと発表しました。
また、2025年4月の新聞報道によると、京都大学のチームがiPS細胞からつくった神経細胞を7人のパーキンソン病患者の脳に移植し4人の症状が改善し、安全性にも問題がないことが確認された。 そこで、もしiPS細胞から脳の記憶に関係する細胞を作製することができれば、それを認知症患者の脳に移植することにより認知症の記憶が改善されることが期待されます。技術的に、学問的にその可能性は未知ですが、夢のまた夢として考えることも無駄ではないと思います。
おわりに
もし脳の移植が許されるならば、提供者の臓器だけをもらうのではなく、脳死の人の身体全部もらって、脳死した脳は取り除いて、そこに別の人の脳を移植して、脳死した人の身体の中で別の人格が生 きていくこととなる。
家族としてそんなことを容認できるでしょうか?さらにこのような脳移植をいったん認めてしまうと、現実には身体がダメになるたびにどんどん脳移植を繰り返して、姿形は変わっても永遠に生き続ける人格というものを認めることにもなってしまいます。これでは人間は死ねなくなるということです。これは、社会的にも、倫理的にもあり得ないことです。
このようにいろいろな意味で倫理的な大問題を引き起こす可能性がありますので、脳移植が認められることはまずあり得ないというのが結論です。
2025年6月1日


